トヨタ博物館の一角、歴代の偉人たちの肖像が並ぶ一画に、その名はあった。豊田喜一郎、豊田英二、豊田小一郎……創業期を支えたビジョナリーたちに混じって飾られているのが、「中村健也」さんである。彼は、国産乗用車開発の礎を築き、数々の名車をこの世に送り出した伝説のエンジニアだった。
1913年、兵庫県西宮市で教師の父を持つ家庭に生まれた健也少年は、その集合写真の中でもどこか遠くを見つめ、先の未来を洞察しているような表情をしていたという。学んだのは電気工学。卒業後は外車の組み立て会社に入社するも、自分の理想と異なる環境に見切りをつけた。そんな時、彼は豊田喜一郎が綴った文章に出会う。そこには「日本の手で日本の乗用車産業を根付かせる」という熱い思いが満ちていた。「この人なら、自分が本気でやりたいことができる」――そう直感した健也さんは1938年、トヨタに入社する。
入社後は、まだまだトラック生産が主流だった時代、手探り状態の工場でボディ製造に打ち込みながら、必要な設備や技術を自ら生み出していく。巨大なプレス機「2000トンプレス」を開発してしまうなど、欲しいものは作る、足りないものは考える、その精神が彼のモノづくりの根底にはあった。
だが主流は依然トラック。乗用車づくりは後回し、「外国製を買えばいい」という声さえあった。そんな空気の中、健也さんは「乗用車をつくらなければ、いずれこの会社は行き詰まる」と上司に主張する。国産の技術で日本の道に合った燃費の良い車を――彼の思いは、1955年登場の初代クラウンで結実する。
「初代クラウン」――それはトヨタが本気で「国産乗用車」をゼロから生み出した初めての車だった。まさに社運をかけたプロジェクト。当時は担当部署を横断し、全体を見渡す「チーフエンジニア」の概念すらなかった。だが、英二専務(後の社長)は健也さんを“全体統括”に任じる。タクシー運転手や業界関係者へのヒアリング、膨大な走行テスト、そして国産技術へのこだわり。その結果誕生したクラウンは、観音開きのドアから繊細なサスペンション設計に至るまで、日本の道を知り尽くした先見性に満ちていた。国内だけでなく、海外ラリーにも参戦し、耐久性を世界に証明する。その信念は続くコロナ、センチュリーなどへと受け継がれ、トヨタを代表する数々の名車が世に出ることになる。
健也さんの強みは、先を読む力と幅広い知識探求だった。モータースポーツ、芸術、音楽、自然科学……あらゆる分野にアンテナを張り、本屋で紙袋2つ分の本を抱え帰り、膨大な資料を積み上げた。何が必要なのかを徹底的に考える、その探究心は、生産技術の改善のみならず、新しい発想を生む土壌となった。50代で挑戦したガスタービンハイブリッド構想は、当時のバッテリー性能不足で実用化まで至らなかったが、そのアイデアは約20年後、プリウスの成功へと受け継がれる。
家でも仕事と趣味の境界は曖昧だった。世界中の車に試乗し、匂いから乗り心地まで、子どもの素直な感想をも参考にする。その姿勢は、「いい車を作る」というシンプルな目的に対して妥協がなかった証拠だ。
健也さんの精神は今、若いエンジニアたちへと伝わっている。ガスタービンエンジンの可能性は、車を超えて空へ――航空機用ハイブリッド動力へと研究は進む。「必要なものは何か」を問い続け、その答えを技術で示す。そのモノづくりの根幹を、現代の研究者たちも受け継ぎ、思いを新たな領域へと拡張している。
「自分が信じるいいものを作れ。それで当たらなければ、自分の見識が足りなかったということ」――健也さんが残した言葉は、今なお重く、そして力強く響く。
彼が生涯をかけた国産乗用車への情熱は、トヨタという大樹の根にしっかりと息づき、人々の心を揺さぶり続けている。
時代が進み、クルマを取り巻く世界は大きく揺れ動いている。電動化、自動運転、コネクテッドカー、さらにはカーボンニュートラル社会への挑戦——。20世紀半ばに奔走した中村健也さんが今生きていたら、どんな言葉を紡ぎ、どんな道具を創り上げ、どんな走りを夢見ただろうか。
中村健也さんのレガシーは、決して過去のガラスケースにしまい込まれたものではない。いまも誰かの心で呼吸し、エンジン音より静かな電気モーターの駆動音のなか、あるいは風を切るプロペラ音や静穏な水素ステーションの脇で、若き挑戦者たちの魂を焚きつけている。その続きは、我々が日々目にする道の先、そして空に描かれる新たなモビリティが教えてくれることだろう。